2012年2月29日水曜日

『ミャンマーの国境 ①』

タイの首都 ”バンコク” より、飛行機で約1時間程の
北の古都が ”チェンマイ” です。
小さな町です。
観光地で、世界から観光客が訪れます。

毎夜、繰り広げるられる ”ナイトバザール” は
有名です。
毎日が、祭りようなものです。
でも私は珍しくありません。

”ナイトバザール”から少し路地に入った所に
私がやっていた屋台の ”焼き鳥屋”がありました。
訪れたお客様は、バリ・近隣諸国・ヨーロッパで働く日本人と欧米の方々・・・・
何故、近隣諸国に住む日本人が来るか?
ビザ延長の為に、一度海外へ出なければならないのです。
その為に、チェンマイに遊びがてら来るらしいです。

私もビザ延長の為、初めの頃は、旅行会社に依頼してましたが、
自分で行く事にしました。チェンマイから最も近い外国がミャンマーです。

子供の頃の、日本にあったようなバスに乗り、
素朴な風景の中約2・3時間で ”ミャンマーの国境手前”に着きます。”
誰も私を、日本人と思ってません。話しをすると「なに人?」と聞かれるんです。

広いメインストリート歩き、国境の橋を渡ります。
周りにはお坊さんが、たくさん歩いてます。

橋を渡りきると、”ミャンマー” です。
まずは、入国管理局でパスポートにハンコをもらい
それから、まわりの散策です。、
お土産屋さんがたくさん並んで、ショッピンをしました。
タイ国より値段が、すごく安い!                              映画 ”ビルマの竪琴” 
              昔、ミャンマーはビルマでした。


買い物して驚いたことが・・!続・・・
                    ☆ご用件がありましたら、詳細プロフィールからメール下さい。

2012年2月28日火曜日

『エルピーダメモリが経営破綻!』

<今朝のニュース>

”エルピーダメモリと東大生の学力低下”

◆エルピーダメモリについて
悲しいことです。以前から噂されてました。
この事態になると、株はどうなるか確認してみて下さい。
コード№6665  売るに売れないJALみたいに・・・


株と出会って約20年で感じる事。
株は生き物のようで、人気・不人気あります。
人気のある株は、掲示板も多くて面白いのです。
エルピーダメモリも人気がありました。
私はエルピーダメモリを500円で買って1,000円で売りました。
”さようならエルビ”

2年ほど前、超人気株で ”ゼクス” という会社ありました。
でも上場廃止になりました。がっかりしました。
今は、いい銘柄があまり見当たりません。

☆日本の株は、アメリカのファンドに遊ばれている!と感じます。

◆東大の学力低下について
食止め策として、インドからの留学生募集

この件について、後日にします。暗すぎて・・・・

”心配です。日本の未来”

タイの話しのリクエストに答えて、明日からタイの面白い話しにしたいと思います。
気になるニュースがありませんように!

2012年2月27日月曜日

『子供の頃の悩み!』

◆読者から初めて メールを頂きました。有難うございます。             
子供の頃の私は、”学校は遊び場” のように思ってました。
今、問題になっている ”登校拒否とかいじめ” には無縁です。

子供の頃の生活           

☆学校では、”おどけといたずら”
一番チビなくせにいばっていて
毎日、バカをしてみんなの笑わせるのがおもしろくて・・・・・。

☆近所では、”ガキ大将”
私の兄がガキ大将だったので、それを受け継いだのです。
ガキ大将は、遊びと作戦がうまくなければなれません。
毎日何をするか?考えるのです。
戦争ごっこ・山の探検・手裏剣作り・各スポーツ・果物の自給・・・暗くなるまで泥だらけで遊んでました。
家のそばに阿武隈川が流れていて、そこを私は ”アベック川”と呼んでました。
何にもする気のない時は、「アベック川にアベック見に行くぞ!」



☆家では ”母へのおっかけ”
いつも一緒で、学校でも知られてました。

そんな訳で、毎日忙しくて勉強どころではなかったのです。
勉強より母の方が大切なのは、当たり前です。

子供の頃の悩みは、 ”日曜日に母の仕事について行くか?友達と遊ぶか?” でした。

2012年2月25日土曜日

『小中学生の留年制度について』

”未来の日本国を担う大切な子供”

今朝のニュースでもやってました。
今後も、議論が深まりそうです。
難しく考えると難しい問題です。 過去のことは解るけど、未来のことは未知だからです。
他国がやっているから、ただそれを真似るだけでは解決にはなりません。

問題①
どの程度のレベルか?知りたいです。
問題にするほど、学力が低下してるんですか?
私は近々、小学校に確認にいく必要があります。

私は10年程前、よくテレビなどで ”教育問題”を
取り上げたニュースなどを見て、こう思いました。

教育問題を問題として取り上げる方が ”問題だ!” と思いました。
もっと重大な問題があります。
”教育しない事が教育だ!” とずーっと思ってました。

自由におおらかに育てられた私は、レベルが低いかもかもしれませんが、
子供はおおらかに育てた方が、自然に夢を育み”子供自身が自分で考える。” と思います。

私がタイのチェンマイに住んでる時に知り合った友人で、こんな方がいます。
アジアの恵まれない子供達を支援するボランティアです。
http://www.tpak.org/
http://www.tpak.org/intro.html

日本は恵まれ過ぎでは?

問題②
留年制度をする事の目的です。
どんな日本社会になるのか、明確にして欲しいです。

政治家の義務です。これこそが重要な問題です。

2012年2月24日金曜日

『戦後の日本を築いた世代!』

”団塊の世代” と思います。

団塊世代の子供時代とは、
みんな貧しく食料も少なくかあちゃん、腹減った~!」
の毎日だったと想像します。
そのハングリー精神が、今の日本を築いたと私は理解します。

私の上の上の上の兄(母からみると次男坊です。)は、
まさに団塊の世代です。
食べ物が少なく、母は腹一杯食べさせたい一心の
子育てだったと思います。
だから母は、「子供は、めしを食わせていれば育つ!」
言ってしまったのだと思います。
”教育しなくとも、愛情を注げば自然にいい子になる”
と信じていたと思います。

私の兄(団塊世代)は、私をおんぶ(子守)しながら勉強したそうです。
母を助けたい気持ちで、勉強したと思います。
成績優秀で当時の事を兄は、
「勉強すればする程、成績がグングン上がり面白かった!」と言ってます。
兄は大人になり、母を助ける親孝行息子になりました。

勉強は強制してやらせるのではなく、
”自分からやりたい” 雰囲気にする事だと思います。

”勉強やりたくなる雰囲気にするには?
簡単です。

原点に戻る。 ”子供を信じて、愛情を注ぐ”
自然に欲が出てくるのを待つ。


私の兄は山が好きで、自宅の前の山に元気里山を作って
子供達を遊ばせてます。

2012年2月23日木曜日

『小・中学生の留年制度?』

今朝のニュースです。
留年制度

これを見て感じたこと

”勉強が苦手な子供が、かわいそうだ!”

人にはそれぞれ ”得意・不得意と長所・短所” があると思います。
不得意と短所を直そうとするより、
得意と長所を伸ばす方が、成果がでると思います。
勉強が苦手だって、人に迷惑かけてる訳ではないと思います。

  ”父と母の夫婦喧嘩”
私が小学生のある日、
父は、子供達があんまり勉強をしていないようなので、
母に、「子供の教育はどうなってるんだ?教育は母親の役目だ!」
と責めているようです。
(父は子煩悩で、「勉強しろ!」と言えない人でした。)

母は思わず、「子供は、めしを食わせていれば育つ!」
とさからいました。
 *そのとうりです!
”勉強をしなくても、元気に育ってくれれば良い!” これは基本です。
”勉強は、したい人がすればよい。スポーツも遊びも・・”
人によって価値観の違い。

重要なのは、なんの為にするか?

たしかに成績が良ければ、それなりの仕事に就けます。
でも勉強しなくても就ける仕事もあります。
その仕事は、社会的にも必要だと思います。

私も学歴がなく苦労しました。苦労は乗り越える元気があればいいのです。
でも子供の頃、楽しく遊んだ事と決して悔やんでません。

世の中には、いろんな人がいてなりたっているんだと思います。

この留年制度は、”同じような人間に育てたい” のですか?
同じような人間=人間のロボット化?

”すごく遊んで、楽しかった子供時代”で良かった!

2012年2月22日水曜日

『"あんこ"  が嫌い!』

②アイテム目
戦後の昔は、甘いものが貴重品だったそうでです。
でも私は、生まれた時から甘い物が苦手でした。
5人兄弟の中で甘い物嫌いは、私一人です。

<小学3年の頃>
ある日母は、”おしるこ”なるものを作りました。
兄二人は、喜んで食べています。
それを見て私は、「何で?こんなの作るんだ!」
機嫌を損ね、泣き出しました。

兄二人は、「また、四角い口を空けて泣いてるよ!」
バカにして笑いだしました。 (この頃、いつも言われてました。)

バカにされたので、更に興奮してしまい、
「こんなの!」と、 おしるこの入った」お椀を外へぶん投げて・・・・!
更にかんしゃくを起こし、
大雨の外に飛び出し、反抗するのでした。

こんな時母は、怒りもせずただ放っておくのです。
(気が静まるのを待つ)
私の心のつぶやき・・・・・・
”私の嫌いな食べ物を、兄達の為に作った。”


☆大人になってから、
母は ”子供は全員かわいいんだ” と気づかされました。

◆本当にバカでした!

2012年2月21日火曜日

『心に残る、母のまずい手料理!3アイテム』

昔は優雅に ”おいしい手料理を作る”と云う環境ではないです。
家に有る物で食べるのです。
子供のおかずば、玉子焼き・ふりかけ・納豆・・・
肉やさかなはあまりありませんでした。

卵は家で飼っているニワトリから・・・
納豆は自家製・野菜は畑から・・・

①アイテム
*大根おろしかけごはん* 
私がまだ小さい頃の食事の時
その日は、子供が食べるような
おかずがなくて機嫌が悪くなり泣いてました。
母はお構いなしに、大根おろしでごはんをおいしそうに食べてます。
私は、「それ、おいしいの?」
母は、「おいしいよ!おいしいから食べてみな?」
「辛くないの?」
「辛くないよ。おいしいな~!」と母。

私は、ご飯の上に大根おりしをのせてもらい
パクリと口へ放り込みました。
すると、冷たくて・辛くて・まずくて・・・

「辛い!」と吐き出し、
「かあちゃんの嘘つき!」と泣いちゃいました。
今は、玉子焼きに大根おろしをつけて食べるのが好きです。

”涙が止まらない編”は、その日に気分次第にします。

2012年2月18日土曜日

『母は、着物が大好き!』

本日、タイピング192回更新しました。200回目標まであと少し!

母とよく郡山の街へ買い物に行きました。
デパートへ行くと、母は必ず呉服売り場に寄ります。
子供としては着物に興味がなく、全然行きたくないけれど、
仕方ありません。母と一緒にいたいのですから・・・・

でもなが~いんです。呉服を見ているのが、
生地をあれこれ・・・・
最初の30分くらいは我慢できますが、だんだん飽きてきて
「母ちゃん早く買えろう!帰ろう!」と何度もいいますが、
なかなか聞いてもらえず、いらいら・・・・・・・
「早く・早く」「早くして!」と何度もせがみ

やっと帰れるのは、2・3時間後・・・
「もうこりごり」と思うんですが、またついて行ってしまうのでした。

母は着物が大好きで、自分でも縫う事が出来ました。
今思うと、和服が縫えるって凄いですよね?

浴衣とか半纏とかを縫ってくれました。

そして一人娘の私に着物をたくさん買ってくれました。誰も頼んでないのに・・・

”一度も着ない着物が、箪笥にたくさん眠ってます!”

◆涙が止まらない編へ続く・・・

2012年2月17日金曜日

『本格的に始まる母へのおっかけ!』

母が入院した事で、私は”母の死”を意識するようになりました。

”母ちゃんが死んだら、生きていけない。”と恐怖でした。
でも考えたくないです。
母が退院してからは、
毎日毎日   ”母ちゃんどこいくの~?”

学校から帰ると、
  • 仕事場まで迎えに行ったり、
  • 近所の母の友達の家に着いて行ったり
  • 買い物には必ず
  • 親戚の家にもいっしょに
どこへでも着いて行きます。
週末、いつも母は行商にいきます。
市場に出せなかった野菜をりヤカーに積んで売り歩きます。
ルートセールスです。

それに私はいつも一緒に行きました。
小さい頃は、リヤカーの片隅に野菜と一緒に乗せてもらい、
大きくなるとリヤカーを押して、手伝いました。
お客さんはいつも決まっていて、休憩させてもらうお客さんの家も決まってました。
お客さんは常連さんです。
母と一緒にお茶やジュースをご馳走になったりして、
母と一緒でいられる事が幸せでした。
帰りにはリヤカーも軽くなり、買い物をして帰ってきます。
それが楽しみでした。

おっかけで行くと嫌な所へ続く・・・・・

2012年2月16日木曜日

『母の入院3日目!』

今日も学校が終わって、一人バスに乗り病院へ向かいました。
病院に着くと、診察医が巡回してきました。

母の母は、「この子には見せられない。きっと手術後の傷を見たら
母ちゃんがかわいそうになり、泣いてしまうよ!」と・・私を廊下に連れ出しました。
売店へ行き、おやつや本などを買ってくれました。
母のベットのそばで、誰にも邪魔されず3人でお話しするのが楽しいでした。

母を独り占めできて、”母ちゃんが元気になればこんな生活も悪くない。泊まりたい。”
とも思いました。

でも夜8時頃に父が迎えに来て帰らなければなりません。
帰りたくないのに、父の自転車に乗せられ暗い夜道を
寂しい気持ちで帰ったのをよく覚えてます。

その頃の私は、母と父と3人で川の字のようにして寝てました。
私は母といっしょの布団です。
母が入院してる間は、父の布団で寝ました。
父はとても子煩悩でやさしくしてくれましたが、
母が恋しくて・・・・・。

母はいつ頃だったか、こんな事を言ってました。
”この世で一番悲しい事は、母と子が離れて暮らす事” 





2012年2月14日火曜日

『母の死を意識する出来事!!』

”母が甲状腺で入院”

母が49歳を目前した頃と思います。
私は10歳、小学3年の頃だと記憶します。

学校の友達が不安になる事を言うのです。
「49歳って・・・・・・・・・」っと縁起の悪い事を言って脅すのです。

その頃、母が急に甲状腺の手術で1週間入院する事になりました。
心配で・・・心配で・・「手術、痛いんだろうな?」
手術後も元気になってくれるか?
もっと悪い病気を隠してるんじゃないか?
不安で、心配で、寂しかったのをよく覚えてます。

当然!
私は毎日、学校が終わったらバスで母の入院する病院へ 
看病に通う事にしました。
初日は手術の日です。
心配で早く病院に行って母に逢いたいと・・・・・
病院には、母の母が看病に来ていました。
手術が終わったところでした。
母の首には包帯が巻かれて、痛々しいです。

「母ちゃん!大丈夫?痛くない?」
母は少し苦しそうですが、「心配しなくていいよ。すぐ治るから・・」
でも吐き気がしたようで、苦しそうです。
私は洗面器をもってきて、背中を擦ってやりました。

”これが初めての母への看病です。”

☆これを機に、母への”追っかけ”が加速するのです。

「母ちゃん!どこいくの~?」続く・・・

2012年2月13日月曜日

「母の死をまだ意識してない出来事の続き2』

耳鼻科で、母に膝の上に抱っこされて診察椅子で
泣きながらも診察をやっと終える事ができました。

私は、「もういやだ!こりごり!」と思い、
母は、これに味をしめ、医者に行って泣きだしたら、
抱っこして診てもらえばいいと思っているらしかったようです。
   ☆甘えさせ過ぎですね?


耳鼻科に行ったことが忘れた頃、母が言うのです。
「お医者さんに行くから、洋服着替えようね?早く々・・・。」

それを聞いた私は、咄嗟に反応!
行きたくない!逃げるしかない!
”あんなのもういやだ!”と逃げ出しました。
母は追いかけてきます。   ”いつもならあきらめるのに?変だな~”

私は、本気で思いっきりダッシュして逃げます。
母も諦めず追いかけてきます。

 ”この時の記憶”
  • 母は追いかけっこのように、半分ふざけて追いかけてるのか?
  • どうして、耳鼻科連れて行きたかったのか?
  • 連れて行かないと父に叱られるからか?
「母ちゃんが医者の味方してる!」と必死になって逃げました。
ずーっと走っていると、たんぼが見えてきました。

その泥土のたんぼの中に入ったら、母ちゃんは追いかけて来ないと思いました。
私はドロドロの田んぼをズボズボ走り、田んぼのあぜ道から振り返ると・・・
母は、がっかりしたように戻っていきました。

”この頃から、作戦がうまくて逃げ足速かったようです。”

しばらくして家に帰ると、もう母は何も言いませした。
怒りもしません。怒っても効き目がないとわかっているからです。
母は私によく言います。  「言い出したら聞かない。」

意味は、”自分が欲しいものややりたい事があると、誰になんと言われても諦めが悪い”
悪く例えると   ”わがまま”   ”人どうあれ 自分は・・・・・!”
良く例えると   ”目標ができると必ず達成する”
その後
鼻の病気は風化し、自然治癒力に強くなりました。

もし母の死を意識していたら・・逃げなかったかもしれません。
母が困るのかわいそうだから・・・

☆母の死を意識するるきっかけに続く・・・

2012年2月12日日曜日

『まだ母の死を意識していなかったと思う出来事!』

小学2年生の頃と記憶します。
耳鼻科に連れて行かれたのです。どんな症状があったのかわかりません。
生まれて初めて来たところなので、どんな事をするのか?他の患者さんの治療しているのを
ジーっと観察してみました。
すると~ 鼻の穴にチューブを突っ込みシューシューと何(たぶん薬)かを入れてるんです。
それを見て自分は、あんなことしたくない!と思いました。

「母ちゃん帰ろうよ!帰ろう、帰ろう!」

すると母は、「せっかく来たんだから、
”先生に痛くしないようにやって下さい”と母ちゃんお願いするから、
”母ちゃん抱っこしてやるから”
”母ちゃん拝むから”
今日は言うこと聞いてね?」といろいろ工夫しながらなだめているようでした。
                           (本日、方言やめときます。)
それでも私は「いやだ!いやだ!帰ろう!」といつもどうりあきらめませんでした。
でも母もあきらめず、無理矢理私を抱きかかえ診察椅子座ってしまったのです。

診察光景は想像してください・・・・?  ”泣くなさけない姿”
母の死を意識していなかった思う理由については・・・続く・・・

”母の母だけのオリジナル子育て名言は、5年以内に違った方法で表現することにします。”

2012年2月10日金曜日

『骨折って痛いのがわかった‼』

イチジクの木に登って骨折した日は日曜日だったので、骨折院が開いていず、
「痛いよう!痛いよう!」と泣き続ける私をタクシーに乗せて母は病院を探しまわりました。

激痛でみるみると腕が腫れてきて車が少し揺れると更に大激痛です。
私はこんな激痛はじめてで「母ちゃん痛いよう!たすけて~!」泣き続けました。

やっと3軒目の接骨院で治療をうけることになりました。
先生は腫れた腕を引っ張るんです。怖くて怖くて・・・・・・・

その夜は、一晩中痛み続け母は寝ずんに看病してくれました。
母はいつも私が痛がると、抱きしめてくれるんです。
いつもそうでした。
私は痛いのが怖いです。
でも母がいっしょだと耐えられました。

この骨折事件で学んだこと ”イチジクの枝は裂けると云う事と骨折は痛いんだぞう~!”
だから大人になって、骨折しないよう注意して生活しています。

何事も経験です。   ”母ちゃんありがとう!”

2012年2月9日木曜日

『木登りが得意』

 ”ターザンごっこ”

子供の頃、木登りが得意でした。
大きな木に登り、枝がきしむまで登り枝先のほうでターザンのように
ぶら下がりながらほかの木に移ったり遠くまで飛んだりするのです。

危険そうな遊びですが母は「木に登るのはやめなさい!危ないから・・!」と
一切怒りません。
中学1年の秋の日曜日、その日母は家で仕事をしていたので、私も家で遊んでました。
庭にイチジクの木に実がたくさんあったので、イチジク採りを始めました。

”私は甘いのが嫌いですが、母はイチジクをたくさん鍋で甘く煮て食べるのが好きでした。”

木登りが得意なので、いつもどうり細い枝のほうにいくと、メラメラと枝が割れ始め
ドスーン! とまっさかさま!

結果、左腕骨折!初めての事なのと余りにも痛いので、”大泣き!”

母は、痛がる私をタクシーに乗せて・・・・・続く

2012年2月6日月曜日

『母へ、初めてのプレゼント!』

”母の死”について意識したのは幾つの頃か?
思い起こすと小学2・3年頃と記憶します。

5年生の時、働き者の母の手がグローブのように大きな手になり 
荒れているのがかわいそうで、おこずかいを貯めて、
 (50円玉の穴に紐をとうして貯めてました)
”母の日”にハンドクリームをプレゼントした事を覚えてます。

2012年2月4日土曜日

『この世でたった一つの恐いこと』

私は”怖いもの知らず”のところがあります。
でも子供の頃からずーと怖いことがありました。

それは、 ”母の死”です。誰でも人はそうだと思います。

私は兄が4人いる末っ子です。子供の頃から、近所の大人や親戚の人がよく母に言うのです。
「この子はバッチだから、親と一番早く別れっから、めんごくってしょうがねばい?」
 バッチとは方言で末っ子の事です。
”母親と早く死に別れるから、かわいくってしょうがないでしょ?”と云う意味です。

子供心に ”死ぬってどういうこと?”と考えました。
”死ぬって、母ちゃんがいなくなること、自分の前から”

それはそれは恐ろしいことです。
私を高齢で生んでくれたので、学校の参観日で友達は、「おばあちゃんがきたの?」と言われました。
それに対し私は、恥ずかしいんとは思わず、早く死んでしまうという事に現実を感じ悲しかった!

続く・・・

2012年2月3日金曜日

「勉強しなくていい!」と言った。 『母ちゃんの遺言』

私の母は、年老いて体が不自由になり車椅子の状態でした。
母は私に「こんな姿になった母ちゃんを見てせつねべ。」と言いました。
翻訳すると 
"自分の体が思うように動けず・足も悪くなり、そんな母親を見て、つらく苦しいだろう? 
そしてそう思う自分の娘がむごい” そう私は理解しました。

私は「そんな事ないよ。」と嘘をいいました。
本当は、毎年々逢う度に年老いていく私の母を見ているのが、
とてもとても何よりも、この世で一番つらい事でした。

そしてその気持ちを母ちゃんにみやぶられないようにしてました。
私を”かわいそう” と思う母ちゃんが ”かわいそう” だから・・・

母ちゃんは亡くなる少し前、テレビを見てつぶやきました。
テレビでは、”朝市で賑やかに野菜を売るお婆ちゃん達” が写ってました。
その場面を見て「あんな風に働きたい!」と羨ましそうに言いました。

そして私に「動けるうちは、働けな!」 母は若い頃とても働きものでした。
意味は ”仕事をできる事に感謝して、楽しく一生懸命死ぬまで働きなさい”
私は、それを大事に守ってます。

◆母が私に残してくれた数々のおもしろい”名言”を紹介していきます。

2012年2月1日水曜日

『元気に生んでくれた母に感謝を込めて!』

母は私に高度な教育できなっかったんですが、ただ一つ教えてくれた事があります。

それは、 ”挨拶”です。
道で知り合いに合う場面があったら、たとえその方が気づいていなくても、
大きな声で「こんにちは!と声をかける事。

その意味は、
”相手の気持ちを考えなさい。その時は気づかなくても、あとで振り向いた時のその人の気持ちを”
その貴重な教えは私の心にとても印象的に残りました。

あれはいけません!これはいけません!あーしなさい!こうしなさい!宿題しなさい!い・!」と規制されてない私にとって・・
簡単です。ただ一つだけですから・・・

  ”この教えは、大人になって仕事にも役立ちました。”

  <人に何かを伝える時>
  • 状況把握       ”相手は「どんな気持ちでいるか?どう思うか?」を考える。”
  • 話すタイミング    ”タイミングがずれていると聞き入れてもらえません”
  • 1つにまとめる    ”あれも・これも欲張らず、ポイントをおさえる”
◆母ちゃん有難う!