2012年4月29日日曜日

『グループ・サウンズ全盛時代!』

日本が高度成長時代になる頃でした。
私が小学生の頃は、テレビ・コカコーラ・チューインガムなど・・・・・・・・・・・・・・・やってきて

中学生の頃には、カップヌードルとグループ・サウンズが出てきました。

その頃は、バカでもチョンでも
グループ・サウンズを真似しバンドが盛んでした。

当然その年代にぴったしの、私の上の上の兄は高校生で
チョンになりバンドをしていました。

兄は、ドラムを担当してよくお寺や裏庭で練習していました。
家にまで、ドラムを持ち込んで練習し
私にも、教えてくれて特訓してくれました。

そのバンドが落ち着いた頃
兄は、急に妹の教育に目覚め、うるさくて・うるさくて・・・・・
親は、私を自由にさせてくれるのに・・・・

夜の9時になると「子供は早く寝ろ!」
「近所の子と遊ぶなよ!もう中学生なんだから・・・・・・・」と
うるさくて、「早く就職して、家を出て行かないかな~」と思ってました。

ある日、近所の子供達と遊べなくなり・・・
でもそんな事を知らない子達は、私の家にやって来るのです。
4・5人でゾロゾロと大きな声で 「遊ぼうよ!」

私は兄が家にいるから、「来るな・来るな・・・・」と思うんですが・・・

上の上の兄は、鬼のような顔をして「まだ、遊んでたのか?」

そして子供達のところへ行き
「もう、遊ばないからな!帰れよ!」 と追い返してしまうんです。

うるせーな~!と思ってました。


テンプターズ

そののち、新宿の店 ”海賊” でショーケンに会うとは思いませんでした。

2012年4月27日金曜日

『海なんか嫌いだ!夏なんか大嫌いだ!』

そう思う、出来事がありました。

銀座の一等地にあるそのショップに合う商品は・・・・・・・・・・・・何か?
毎日考えました。

◆ある日、店を見ていると・・・・・・飛ぶように売れているTシャツを見つけました。
”かわいい”です。そのブランドは・・・・・

そのブランドは、その頃勤めてた会社にもありました。
売れないブランドとして・・・・・・・・・

そのブランドTシャツを見た時、”これだ!” と思いました。

◆早速、その店の仕入れ担当者に電話して・・・・
トントン拍子に商談が進み、
仕入れ担当者は、言いました。
「考えて下さい。うちに合う商品を・・・・」

◆私は、その店の客層を想像しながら一人で考えました。
そして、オリジナル特注商品を受注・・・・・・・・・・”やった~!”っと
時期は、11月の頃でした。
輸入品のコンテナ単位の発注です。

そして、翌年の3月の船積みの時期、
心配になってきました。
果たして、一括で納入してくれるのか・・・・・・・・・
約束では、一括納入ですが・・・・・・・

たとえば、春物商品が売れてなければ、
在庫が膨れ、夏物を投入できない状態になります。

心配で心配で・・・・・夜も眠れませんでした。

◆でもなんとか、一括投入を納得してもらい、
今の時期の飛び石連休の5月1日に納品しました。
  夏物商品は、5月の連休前に納品するのが一般的で、
  ゴールデンウィーク前が一年で一番忙しい時期です。

でもその年の5月は、天気が悪い日が多く
その商品は店頭に、なかなか陳列されませんでした。
6月になっても陳列されませんでした。

”やばい!”と思いました。


そしてその年の夏、雨ばかりが続き・・・・・・・・・・

そして、『海なんか嫌いだ!夏なんか大嫌いだ!』と・・・・・
ここから、下降トレンド人生が加速・・・・・・・・・・

そして、再び『海が好き!』 これからは、ずーーーーーーーーーーーーっと!

”母に褒めてもらえる人生にしたい!”

        わが子を信じ、褒めてくれたのは母だけでした。



2012年4月26日木曜日

『タイのチェンマイから帰国後の出来事!』

ちょうど今頃の季節です。
                     ★チェンマイでお店をできたのはガキ大将の名残り・・・?。
チェンマイから帰国後、
予定していたことが
思いどうりにいかず、
以前していた仕事の業界に
出戻りしてしまったのです。

以前していた仕事の
仕入れ先へ・・・・
その会社は、夏物グッツ屋で
展示会では、
私の好きな海のイメージの
商品が飾られているので
よく遊びに行ってました。
たくさん買っていました。
超特価で仕入て、スーパーへ勧めてました。

◆その会社の仕事に誘われた時
恥ずかしくて・・・・・
一度捨てた仕事を・・・
自分らしくなく・・・恥ずかしくて


業界の人は、ほぼ自分の事を知っていました。

チェンマイから帰国後、再び営業の仕事を始めた訳ですが
厳しい条件でした。難しいと思いました。
◆その会社の商品は日本国中に出回り過ぎてたからです。

よほどの企画力がなければ・・更なる売上は難しいと
思いましたが、好奇心でやってみました。

何社か新規開拓はできましたが
大きな売り上げにはなりませんでした。
どこか販売力と女性に人気のある
魅力的な小売店はないか?考えてました。
◆毎日考えていると・・・・・・・・・・朝のテレビで 
”女性に人気のある売れ筋情報” やってました。
その店は、銀座の一等地にある有名なお店でした。

◆ここがいい!と思いました。
◆問題は、そのお店に提案できる商品ができるか?です。
そのお店は、他社が売っている商品はあつかいません。

毎日、考えてました。
そのお店を見て回り、
考えました。



そして、ある日・・・・・・・・・・・






2012年4月25日水曜日

『”ぱっち” が得意!』

”ぱっち” は方言で、”めんこ” の事を言います。

ガキ大将の頃は、近所の子を集め
”お寺で野球・缶蹴り・ドッジボール・陣取り・すみか作り・お医者さんごっこ・エビガニ釣り” とか
人数によって、いろんな遊びメニューを考えました。
これらの遊びは、ほぼ大人になって役立つと思います。


◆人数が少ない時は、よく”ぱっち”をやりました。
 二人からできるからです。

ルールはいたって簡単で・・
四角い台の上に ”ぱっち” を置き
相手の ”ぱっち” を パチ~ンと四角い台から
振り落としたら、その ”ぱっち” は自分の物になるのです。 

◆コツがあって、台の上に置いてある ”ぱっち”を
 よく集中して見て、微かな隙間を見つけ、そこをめがけて
  からだを低くして、パチ~ンと吹き飛ばすように・・・・
 すると思いどおりに、相手の ”ぱっち” が地面に飛ばされてしまうのです。
 それを練習し、得意でした。

近所の子が毎日のように、修行に遊びに来た時もあります。

たくさん段ボールに集まった ”ぱっち”!

◆私が中学1年になると、上の上の兄は
 いきなり妹の教育に熱心になり、こう言うのです。
◆「もう、近所の子と遊ぶんじゃないぞ!」と
  ”うるせえな~” と思いました。

◆すると上の上の兄は、「この ”ぱっち” もいらないから燃やすからな!」と
  私の目の前で、マッチに火を点けて燃やしてしまったのです。

ひどい事をすると思いました。わざわざ燃やさなくてもいいのに・・・

この野郎!と思いました。
そして兄は、言いました。「本を読め?」としつこく言いました。

★でもこの兄は、私が高校生になると学費として仕送りを毎月してくれたのでした。

2012年4月24日火曜日

[『暴れん坊の兄!』

昨日に続き・・・・・
兄の妹いじめは、どんどんエスカレートし・・・・・・・・
◆私が、お年玉とこずかいを貯めたお金まで盗まれたほどです。
 憎たらしくて・・・・・悔しくて!

◆そして兄は子供の頃、よく言ってました。
 「俺は、一番強いんだ!学校で一番強い!」と

兄は、喧嘩が一番強いから、
一番 ”えらい!”と言ってるんです。
勉強できるより、”えらい!” と言ってるんです。

解りやすい、単純な子供だと思いませんか?
今の子供で、こんな事言ってる子いますか?

そんな憎たらしい兄でしたが、
遊んでもらいたい気持ちがありました。
男同士の遊びが面白そうに見えたのです。

◆よく私が、兄達の後ろをついていくと、
 兄は、「女は、ついてくるな!」

それでもついて行くと・・・
兄は、膝を曲げ道の石ころを掴み
石を私に向けて投げる素振りをするんです。

そんな光景は、何度もありました。

苛められるんだから、ついて行かない方がいいと思われますが、
男の遊びに興味があったのと、
やはり兄に遊んで貰いたかったのです。

そして私が中学生になると、
◆兄は中学3年生で、”裏番” 張ってたんです。
 ”裏番” とは、番町の上で、
 会社で云うと、社長の上の会長といっしょです。

その目立つ ”裏番” の妹も、
チビなのに益々目立ってきたと云うことです。

兄は、柔道部に入部していて
部活しているのをよく応援しました。

◆その頃から
 自分の成長に合わせるようにやっていた
 テレビ番組と ”青春ドラマ”

兄の強さを柔道に活かして欲しかったですが、
家庭環境の複雑さもあってか?
横道に向かってしまったのでした。

◆その頃から、家庭がガタガタ・・・
 と崩れ始め・・・・・
 中学生の苦労の始まりです。


2012年4月23日月曜日

『母が元気だった頃の年間行事!』

”母は、人集めが好きでした”

近所の友達を集め、手料理を振舞っていたようです。
バス旅行に行く為の、人数集めなどもしていたようです。

子供達へは決まって
◆”ゴールデンウィーク” と ”お盆” と ”正月” は、子供達5人全員を集め
宴会をしたり近くへドライブして遊びに行きました。

それは楽しみでした。5人兄弟全員参加してました。

◆でも大変です。食事の支度が・・・・
兄4人は、家族を連れて来りもしてましたから
15人位分の食事の支度と布団の支度。
私は、母の為にほぼそれを手伝いました。

◆そしてこんな事をよく言いました。
「なんで、姉ちゃん生んでくれなかったの?」
その言葉は、小さな頃から言ってました。
その言葉で母は、”ふびん” と感じていたようです。

すぐ上の兄に、毎日いじめられ・・・・・・・毎日・毎日・毎日・毎日
泣いていた、子供時代を忘れる事ができません。

すぐ上の兄は、とても ”食いしん坊” で ”暴れん坊” でした。

◆たとえば、羊羹1本をまるごとかじるほどの食いしん坊で、
また、せんべいは何袋も食べてしまうんです。
無限のように食べる兄


◆子供の頃のその食いしん坊は、妹の食べ物を取り返すのでした。
その度に、私は悔しくて ”ギャーギャー・ギャーギャー” 泣いてました。
その事は、夢にまで出てきて
眠りながら泣いてた事を、よーーーーーーーく覚えてます。

こんな感じです。
昔、”ヤクルト” が出始めた頃、
一人に一本は与えられませんでした。

◆1本のヤクルトを、子供3人に分けて飲むことになり

目印のとこまで、上の上の兄から順番に飲み始め
すぐ上の兄の順番にくると、妹の分まで、”カッポーン!” と一口で飲んでしまうのです。

もう悔しくて悔しくて・・・・・・・・・・・・ ”ギャーギャー・ギャーギャー”
今思うと、普通は小さい子から飲ませるべきだと思います。

今時、ヤクルト1本飲むのが ”夢” と言う子供はいないと思います。

私の当時の夢は、
大好きなスイカを丸ごと半分に切ってスプーンで食べる事でした。

子供の頃の悔しい思い出は、
大人になって、男社会で働く力になったんでは・・・
と思います。

◆悔しさこそが力なり・・・
”悔しい思いをしないと、力を発揮できない” と
自分を分析します。

そして、この兄が姉だったら・・・・・・・・・・・・・・・・・・?
今の人生とは違うと想像します。




2012年4月22日日曜日

『新宿の ”海賊” ⇒ ”八丈島” へ!』

”海賊” へ初めて行くようになってから10年が経ち
フラーッと”海賊”へ行ってみました。

その10年は、とても波乱でした。
久々に ”海賊” に入ると、いつもどうりマスターは
「よう!こいつはさ~!初めてこの店に来た時、”つなぎ” 着て来たんだぜ!」
10年も経っているのに、まだ他のお客さんに言ってました。

◆そして私は、マスターに相談しました。
「海が好きで、いろんな海へ行ってみたい!島にも行ってみたい!」
「海が好きで・好きで、すご~く行きたい!」


するとマスターは
◆「俺の友達が、八丈島で飲み屋をやってる人がいる。」
「漁師がたくさん来る飲み屋だ。行ってみるか?」

◆私は、”やった~! 言ってみるもんだ” と思いました。

子供の頃、猪苗代湖を ”海” と勘違いした時から一目惚れです。
ずーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっと 海が好きでした。

もう誰にも流されません。
ディスコも夜遊びも、自分は行かないと・・・・

その10年の間の5年間は、夜・昼休まず働き
お金にゆとりもでき・・・

その頃、”天国に一番近い島” に行ったのです。

そして、真剣に自分の人生を考えていました。

◆高卒の自分は
”大卒と同じ位の収入を得たい!” と

10年のブランクを埋める、挽回作戦を考えてました。
どんな仕事がいいか?

はじめは、お金が少しできたので 
”焼き鳥屋” を経営しようと思いました。

2012年4月21日土曜日

『かっこいい”清水健太郎”!』



◆若い頃、毎晩行った ”ディスコ”
今は、”クラブ”って言うんですか?

自分が行きたかった訳じゃなく
友達が、「ディスコ行こうよ!」
2・3回なら・・・・・・・・
それが「今日も行こうよ!」と
寝不足なので断ると・・・・
職場へ迎えに来るのです。
ホテルオークラの社員専用出口で待ち伏してるんです。

新宿は歌舞伎町の ”ディスコ” に
毎晩行き、顔パスになった程です。

 その”ディスコ”で
ある日中、清水健太郎のイベントがありました。
凄い人込みで、私は店の前にある喫茶店へ入りました。

すると・・・清水健太郎が入って来たのです。

◆私の隣の席に座り、こう言うのです。
「アロハ、似合うね!」
当時、アロハをよく着てました。
嬉しくて、嬉しくて・・・・
そのアロハに、サインをしてもらいました。
ただそれだけですが・・・・・

清水健太郎さんに、もう一度がんばってもらいたいです。
”人生はまだ終わった訳じゃない。まだまだ0からやり直せる!”と
失恋レストラン” 聴いて下さい。
自分にもいい聞かせて・・・

昔のヒット番組 ”銀座NOW” から飛び出した
清水健太郎がんばれ!

2012年4月20日金曜日

『ジャニーズ事務所にいた ”マチャル”!』

マチャルに初めて会ったのは、新宿は歌舞伎町の ”ビートルズ” と云う店でした。
そこへは、芸能界に係る仕事をしていた方に連れて行かれました。

その方は、私と同年代が多く集つまる店に
連れて行きたかったんだと思います。

小さな店で、ポスターが貼られている薄暗い店内
マチャルを見た時、テレビで見てたのですぐ解りました。

◆2年程前、人気番組 ”うわさのチャンネル” に出てたのです。
凄く!面白い番組で、まだ10代だった私は
”げらげら” とお腹を抱えて笑って見てました。

◆出演者は、和田アキ子・デストロイヤーと他売れていたタレントです。
和田アキ子さんが、ゴット姉ちゃんでいろんな面白い手段で
いじめると云う内容で、いじめ方が
すご~く面白かったのをよく覚えてます。

その番組に、マチャルがいじめられ役で出てたのです。
マチャルは、元々は郷ひろみさんのバックダンスをしていて
歌手志望だったと思います。

マチャルとは、初めて会った時から意気投合しました。

◆”類は友を呼ぶ” と云う感じです。
          写真の左上がマチャルです。⇒


マチャルは、私が帰省する時は
いつも真っ赤なスポーツカーで
上野まで送ってくれました。

マチャルが恋人が欲しいと言うので
友達を紹介したりもしました。

◆このブログを書いてると、
自分の歩んできた人生を
振り返れて・・・とても懐かしいです。
 マチャル!今どうしてるんだろう?

◆昔の方が、テレビ番組は面白いのたくさんありました。
今は・・・・・・・・・・???

2012年4月19日木曜日

『新宿の店 ”海賊”』

◆ ”海賊”は、新宿の末広亭のそばの地下の店でした。
20歳の頃から、よく行ってました。

そこへ何故?行くようになったか?
誰かに連れられて行ったのか?一人でフラッと行ったのか?覚えてません。

◆海が好きな私は、”海賊” と云うネーミングがよくて行ってたのかもしれません。
店内は、薄暗く海賊船のような雰囲気です。

◆そして、”海賊”には、役者がよく集まる店でした。
当時の人気番組 ”前略、おふくろ様” の出演者達をよく見かけました。
ショーケンと向かい合わせで呑んでました。

”海賊” のマスターは、以前役者志望だったと言っていたように思います。
マスターの友達の役者達は、当時注目されていた”ピラニア軍団”でした。

◆”ピラニア軍団”の方達によく御馳走になり、どぶろくを呑んでました。
どぶろくをお椀で呑む、しぶい店です。
おつまみは、”海賊焼き”がメインです。

そこへ通うようになってから何年か後に
時々フラーっと行くと マスターはよく言ってました。

◆私の事を 「こいつはよ!初めてこの店来た時 ”つなぎ” 着て来たんだぜ!」
マスターは、それがイメージに残ってたんだと思います。

◆当時、流行っていた ”ダウン・タウン・ブギウギ・バンド” が着ていた

"つなぎファッション"  ツッパリフャッションをしてたんです。*年が解りますね?
◆懐かしくて笑えます。  ◎赤い文字をクリックして当時の映像を見て下さい

そしてその後も、数々の役者さんと知り合うのです。

2012年4月18日水曜日

「日本の総人口 過去最大の落ち込み!』

”今朝のニュース”

最近、過去最低・過去最高・減少が多すぎだと思いませんか?
  • 大学生の仕送り金が過去最低
  • 日本人留学生が過去最低
  • 離婚率
  • アメリカのシングルマザーが過去最高
  • ・・・・・・・・・・・・・・
そして、強かった日本企業が負け組に・・・
  • ソニー・シャープの業績下方修正
  • パナソニックの業績不振
  • ・・・・・・・・・・
10年程前に、”日本は過度期” と言われてましたが、
本当の過度期はこれからやってくるように思います。

まだまだ続く下降トレンド・・・・・・・
頂上があれば、再び底へ・・・・・これ自然の原理です。
                                                     
◎そして、再び ”日は昇る” と信じています。

◆お人よしの国 日本
日本は、とてもいい国だと思います。
四季があり、人柄もやさしいです。
そして、いつかは気づくと思ってます。

国と云うのは、一つの大きな会社のようなものです。
トップ(社長)の経営戦略次第で、変わっていきます。

勝ち組の社長が、経営経験を生かして政治に加わったら・・・・・・・・・・・と考えたりします。

”がんばれ日本!” そして世界の困ってる人々を助けよう!

2012年4月17日火曜日

『エゴからエヴァへ!』

この本との出会いは、
頭の中が ”仕事だけ” の頃です。

その頃は、時間ができると本ばかり読んでいました。
”第2の読書時代” と
自分の年代を括ってます。

本に書いてある事は、
すべて正しいとは限りませんが、
参考にはなります。

こんな考え方もあるとか?
何を指標に考えて書いたのとか?
いろいろ考えられます。

本を読むにあたって、
ジャンルは問いません。
何でも読みます。

その頃、一番興味があったのは
”未来” の事です。
未来の自分の生き方を考えたかったのです。

”人はどう云う方向に向かっているのか?”

この本を読んで考えさせられました。

◆”エゴ” とは、自分・家族・会社・恋人・等がよければそれで良い・・・・・・・・・・・・・・・・・。
と云うような考え方です。
確かに、競争社会によって発展してきたと思います。

そして豊かになってしまった現在、

”競争社会によって失われた、心と自然”

◆”エヴァ” とは、みんなで手を取り合って幸せになろう!
自分の我欲の為だけではなく、人の為にみんなで助け合おう!

”人類は、エヴァに向かっている” と云う内容の本だと記憶してます。

いい内容だと思いました。
でも人は、「競争がない社会で、発展はありえない」 と
果たしてそうでしょうか?
私は、発展の仕方が今までとは違う・・・・発展だと思います。

◆昨年の震災で学んだはずです。人にとって何が大切か・・・・・?









2012年4月15日日曜日

『永遠のアイドル NO1!』

” 命日4月8日”


この方の人生は、悔いの無い燃え尽きた人生と思います。
好きな人を、素直に「好き!」 と言えたのは”悔いがない”と思うからです。

”海が好き!” と言える自分も悔いのない人生にしたいです。

”何が好きか?” わからないよりは、幸せです。

そして、”好き ” に代わる感情は無く、
                                                    http://www.youtube.com/watch?v=KsZu0jhK0Hk
                                                                                       http://www.youtube.com/watch?v=GGyDD-1xTkI
好きな人に代わる人はいません。

”海” と ”愛” に代替品はないのです。


 ”好き!” が、わかる人生にしてくれたのも
大好きな母に、愛情一杯に育てられたからだと自覚しています。
母は、私の性格をよく言ってました。「一本木!」と

”言い出したら聞かない” の意味のようですが、
”これと決めたことは、とことん・・・・・・・・・・・・・やりぬく!”

これからも、ずーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっとです。

でも、”誤解されやすい”のが残念です。
でも、誤解されても言い訳は言いたくありません。

誤解される自分が悪いからと・・・・・・・・でも、母だけは信じてくれました。

2012年4月12日木曜日

『タイへ行く前のひと時!』

日本の ”水掛け祭” を見に行った後
友達に誘われるまま、新宿に映画を見に行きました。

映画は面白いような・・・・・・・・・???少し不思議な感じの内容でした。
映画が終わり、場内に明かりがつくこうとする時
彼女は、不思議な言葉を言った事を覚えてます。
”不思議な言葉”と云うだけで、内容まではよく覚えてません。

「この場面見たことある!・・・・・・・・・・・・」 と言ったように思います。
何言ってんだろう?と思いました。

そしてこんな事うを言いました。

”人は人生の上で、いろんな人と出会います。その中で、縁のある出会いは、
ただの偶然ではなく 意味のある出会いである。” と
笑顔でこの出会いもと言っているようでした。

神様か何かが、何かを解らせる為に仕組んだ出会いであると解釈しました。

この言葉は、この時初めて聞いたように思いました。

確かに出会いによって、人生は決まります。
その言葉の内容は、彼女が誰かに聞いたのか?
本で読んだのか?自分で考えた事なのか?
それは解りません。

”まだ若いのに神秘的な事を言う人だ”
第3印象です。

そしてその後、私は出会いがあるたび
”意味のある出会い”を意識してしまうのです。
「そうなのかな~?どんな意味があるのかな~?」

私は、母の末っ子として生まれ
のびのびと育てられたのものも
何か意味があるのかな~?と

そして、”海に一目惚れ”したのも?
自分の長所を生かして営業の仕事を選んだのも?
チェンマイとの出会いも?

これからの人生で見えてくるはずと思います。

そして二人はのちに、”バンコク2泊3日笑える珍道中” をするんです。
そしてその後、さまざまな人との出会いへと導いてくれた貴重な人なのです。

2012年4月11日水曜日

『タイの水掛け祭り!』

タイは今の時期、真夏です。
4月13日から1週間位タイの各地で
水掛け祭り(ソンクラーン)が行われます。

どんな時でも、その時期は バシャー、バシャー と
水を掛けられても怒る事はできません。
お祭りですから・・・・・・・・

以前は日本でも ”タイの水掛け祭り” が行われてました。
そこへ行ったことがあります。
高円寺の方だと思います。

日本のタイ語学校で知り合った友達に誘われたのです。

その友達とは、わずか3ヶ月前の忘年会で出会いました。
タイ語学校に通ってる人達は、タイで暮らす為に
タイ語を学んでる人は、あまりいません。

その知り合ったばかりの女の子から質問されました。
よくある質問です。
「どうして、タイ語習ってるんですか?」
「タイに行って暮そうと思ってるから・・・」
そう言うと彼女は
「私も!」
そして 「タイへ行ったら、現地のタイ語学校にも行くんだ!それから・・・・・・・・」
また彼女は、「私も!」

まだ女の子っぽさが抜け切れない彼女は、
それから何度も、嬉しそうに 「私も!」「私も!」 を連発するのです。
同じ目的の友達ができて嬉しいんだと思いました。

それが第一印象です。
そして、「真似すんなよ!」 と言っても
お構いなしに、笑顔で「私も!」「私も!」

その後タイへ行く予定は、彼女は5月にバンコクへ
私は6月チェンマイと決めてました。

その彼女が、「ネットとで探した"日本の水掛け祭り"に行こうよ!ね、行こう?」
中央線沿線の駅で待ち合わせして
水掛け祭りに行きました。

水掛け祭りを見物後、近くの喫茶店に入りました。
その喫茶店での、彼女の礼儀がとてもよかったのです。

その礼儀良さが、私の脳裏に新鮮に焼きついた事を覚えてます。
この人の親は、育て方がうまいな~と思いました。

そして母の死の事を、私は語りました。
すると彼女は、「その人の人生は、死ぬ間際に解るんです。!」と
母の死に方を褒めてくれたのです。

”いい死に方” だと褒めてくれたのです・・・・・・・・・・嬉しかったです。

それが第2印象です。

そして彼女は、「これから映画を見に
行こうと思ってるんですけど・・・
一人ででも行くつもりなんですけど・・・・・
行きませんか?」 と




新宿の映画館で・・・・・第3印象へ・・続く

2012年4月9日月曜日

『はやく起きた朝は・・・・!』

毎週日曜日朝6時半のテレビ番組です。
以前は ”おそく起きた朝は・・・” でした。
長く続いてる番組です。

磯野貴理子さんを中心に女性タレント3人が
普段感じたことを楽しいおしゃべりを繰り広げるんです。
賑やかにおしゃべりして、なかなか面白いです。
私の親友も磯野さんみたいに機関銃のように話すひとでした。

先日、磯野さんが山手線で降りた事のない駅が2つだけ
と云う話しをしてました。
年齢と共に思い出も増え、人生経験も豊富になるのは
皆同じです。

私も過去を振り返ると、山手線で降りた事のない駅はありません。
全部降りました。
そして、東京圏の駅も大体降りたと思います。
各駅に思い出があります。
以前の仕事が営業だったこともあり、
西は千葉の富津~東は神奈川の伊勢原
北は茨城~南は横須賀

出張では、北は仙台~南は沖縄です。
年に何回も行った、名古屋・大阪・神戸
飽きるほど行かなければならない出張です。
必ず泊らなければならないビジネスホテル・・・・


今はここでバラとひっそり一人暮らししてます。

2012年4月8日日曜日

『望みどうりの死!』

親友の死は望みどうりだと思います。
子供を育てあげる役目は果たし、
若い頃思った目標は達成したと思います。

◆葬儀に行くまで・・・

親友の告別式に出なかったら
”一生後悔するぞ!” 一晩中考えました。

そして朝になり、再び旅行会社へ行きチケットをお願いしました。
キャンセル待ちにしてもらい、キャンセルをジーと待ちました。
2・3時間位して、「乗り継ぎの悪いチケットなら取れます。」

そのチケットは、夜チェンマイを出発しバンコクには夜中に着き
日本に出発は翌朝でした。
「それでいい、そのチケット下さい。」どうしても帰国しなければなりません。

それからホテルへ戻り、ふらふらの力のは入らない体で
荷物の整理をし段ボールに荷物を詰めホテルに預けました。

夜になり、リュック一つを持ちホテルを出ました。
リュックの中には喪服しか入ってません。

◆私は、母の死が怖くて喪服を持ってませんでした。
でも母が亡くなったので、チェンマイで喪服を作ってしまったのです。
その喪服を、親友の死で初めて着る事になるとは思いませんでした。
喪服を作った事を悔みました。

バンコクに夜中に着き、朝まで野宿のようなものです。
その辺に寝っ転がり、出発時間を待ちました。

翌朝バンコク出発し、自宅へは夕方着きました。

翌日、葬儀会場へ入ると・・・
親友の子供二人が振り向き 涙目で「来てくれたんだね!」と
つぶやくように言いました。
懐かしい友達も来てました。

喪主のご主人の挨拶の言葉は
「自分の母親と同じ年を迎えて亡くなりました。」と

親友は若い頃からよく言ってました。
「私は早く死ぬ、だから早く結婚して、子供を成人にさせてから・・・」

◆そして葬儀が終わり
昨年成人になったばかりの娘がこう言うのです。
「お母さんは、病気のことをみつえちゃんにだけは言わないで・・・・!」と
言ってたそうです。
他の友達はみんなお見舞いに行っていたのに・・・

◆そう言わせた心理は・・・
今でも解明できません。  どう思いますか?

◆そしてこうも娘が言うのです。
「お母さんは、”憧れていた”と、海が好き!チェンマイが好き!な人生・・・・」
◆親友の人生も立派であったと思います。


◆そして私が、何気なく渡したホテルのパンフレットを
大切に持っていたのです。
私はそのことを既に忘れていたのに・・・・・

入院してる時、自分の寿命を解っていたと思います。
何を考えていたんでしょう?
チェンマイにいる私に会いたかったと思います。
それを我慢した事を思うと泣けます。
とても泣けます・・・

”そばにいなくてごめんね”

親友はよくこの家に来て
「窓拭きしないと、汚れてるよ!」
と言ってました。


皆さん、どんな人生にするか?自分次第です!

2012年4月6日金曜日

『タイのチェンマイで聞いた、親友の突然の死!』

それは母の時と同じ朝の電話です。
チェンマイで暮らすホテルの部屋で
朝食中にリーンと電話が鳴りました。

それは外線の電話のベルです。

「もしもし。」
「みつえちゃん?」
「うん!」  
「はるかです。」  一瞬誰? でもすぐ親友の娘と解りました。
「どうしたの?タイに遊びに来たの?」 そういう年頃と思ったからです。
「ううん・・・・日本だよ。」
「そうなんだ。それで?」 どうしてここの電話番号が解ったんだろうと思いました。

「お母さんが・・・・・・・・・・・」
「お母さんがどうしたの?」 お母さんに国際電話を頼まれたと思いました。

「お母さんがね!・・・具合が悪くて・・・・」
「具合悪いの?」 なかなか言いだせない様子です。
「・・・・・・・・具合悪くて、入退院を繰り返していたんだけど・・・」
「うん、それで?」  病気のことを聞いえませんでした。

「・・・・それで・・・・・・・・・それで・・・死んじゃったの・・・」

私は、「・・・・死んじゃった?・・・いつ?」 腰ぬけそうになり、体が震えました。
「今日の朝。さっき!」

「随分・・・・・早すぎるね!」 と私は叫びました。
でもそれは現実の事です。
二人は少しの間沈黙になり・・・・・・

「どうにかして帰国するから・・・・・」 と電話を切りました。
すぐに同じホテルに滞在中の友人に話しに行きました。

 友人は、「親友の葬儀に出席しないと一生後悔するから・・・・・」
すぐ旅行会社にチケット買いに出かけました。

でもチケットはありませんでした。
大学生の春休みで、満員との事です。
がっかりして友人に伝えると

「これからお寺へお参りに行って線香を上げましょう。それで親友もきっと解ってくれるから・・ね?」
それで諦めようと思い、親友のご主人に事情の電話しました。

そしてその日の夕方の暗くなり始めた頃に
親友の葬儀に出ないのが
 
”一生後悔するっぞ!” と胸に迫ってきました。
 ”一生” です。

”後悔”は、自分にとって一番厭な事です。
その年、桜は早目に咲いた3月の事です。

2012年4月5日木曜日

『今朝の日の出 5時22分! 気温19℃』

昨日からの”親友との思い出”

のり子はある日、「コックさんの飲み会があるから一緒に行こうよ!」
早く結婚したがってるのり子は、結婚相手探しをしていたのです。
まだ二十歳にもなっていないのに・・・・・・

何故か・・・・
のり子は、母を早くに亡くし自分の寿命を
それ位までと思い込んでいたのです。

”自分の子供が二十歳になった時、自分の年齢を計算していたのです。”
だから早く結婚したいと思っているようでした。

その飲み会に行って、ナンパされたかったのです。
私は、ナンパされる事に全然興味なかったのですが
コックさんの宴会に付き合いました。

女は私たち二人だけで、のり子は望みどうりナンパされ
私も当然、ナンパされて・・・・・・ただそれだけです。
自分にとってナンパは、高校時代から
ナンパの嵐をうけていたので、珍しことでも何でもないことです。
誰にでもある年代のただの出来事です。

そしてのり子は、そのままその相手と
同棲し結婚してしまいました。

その後、のり子と私は全然違う道を歩んで行きました。

それから10年程あまり会いませんでした。

でも10年・20年会わなくとも
喧嘩もしながら、兄弟のように
遊んだ青春を忘れませんでした。

2012年4月4日水曜日

『このルーフバルコニーで、親友との思い出!』

親友との付き合いは、ホテルオークラ時代です。
18歳の時から、ずーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっと友達です。
友達になるきっかけは、彼女からやって来たのです。
高校を卒業後
ホテルオークラに入社し、武蔵新城寮に住んでました。

その頃私は、山形出身の友達と仲良しでした。
何で仲良しだったか?
それは私の事を何でも聞いてくれるからです。
甘えていたのです。

そこへのちに親友となる ”のり子” が どかどか!
すごいアピールで ”友達になるべきだ!”っと
云う感じの勢いで迫って来ました。

そんなに気に入ったのなら・・・・・・と、こんな奴で良ければと・・・・
”ダチ” になろうか?と思いました。
それからは、いつも一緒に遊びました。

私は、その寮を皆より一番先に出て
日暮里の近くの千駄木にアパートを借りました。
子供っぽい私でしたが、そう云う行動力はあるのです。

すると,のり子も近くの町屋へアパートを借り、
寝起きを共にする程 いつも一緒に遊びました。

寝起きを共にするのは、”同じ釜の飯を食う”のと
同じような意味です。
しかしのり子と私の大きな違いは、
のり子は結婚願望がとても強いと云う事でした。

思い出の話までいかず・・続きにします。

2012年4月2日月曜日

『自分の心に素直に、自分らしい新しい生き方がしたい!』

こんなテーマで、チェンマイに行く前に自分の考えをまとめた文章があります。

いい年をし・・・・・・・・子供っぽいと
思われるかもしれませんが・・・そう思ったのは、本当の心です。 

 ”自分の心に素直に自分らしく” ”悔いなく精一杯生きたい!”

それは子供の頃からです。
何かをしようとする時に ”テーマと意味と理由” を考えたりするのです。

◆たとえば、40歳になる頃は、
”最後の夜遊び” と称し、すごく遊んだ事があります。

若い頃、遊びまくったので、あまり”遊びたいとは思いませんでしたが
40歳を記念して、遊んでみようと思ったのでした。
お金もこの時、一晩に5~10万円位使いました。
最初は2・3万の予定でしたが、酔っ払っちゃって・・・・・・馬鹿ですね。

若い頃の思い出の新宿で・・・・・・・無理矢理遊んだような気がします。
期間は3ヶ月位で、お金の計算をしたら、今思うと大金です。
チマチマ遊ぶのではなく、まとめて遊ぶ
何をやるんでも悔いなくやる。

お金についても別にいいんです、お金持って死ねませんから、
お金で ”愛” は買えませ

そしてピタリと止めました。


今週も海のように爽やかに生きて行きましょう!
夏には、この屋上でパーティーしませんか?

2012年4月1日日曜日

『原始的子育て方!』

このブログは、自分が大好きである 母”・ ” ・ ”タイ”  について綴っています。

何故?海が好きなのか?
何故?タイに行き、チェンマイを好きをなったか?

いくつになっても、ずーーーーーーーーーーーーーっと好きでいられる事が幸せと感じます。
これからも、ずーーーーーーーーーーーーっと変わりません。
それを分析すると
育てられた環境にあると思います。

兄4人を持つ末っ子である私は、   
自由にのびのびと愛情一杯に育てられたからだと自覚します。
母は決して叱らず、面白い言葉で気を引かせるのがうまかったです。

自由に育てられると、自由な考えと型にはまらない発想をするものです。
私は、子供の頃から ”人生は一度だけ” を意識していたように思います。

”やらないで後悔するより、やって後悔した方を選ぶ” 自分の生き方基本です。

子供時代~思春期~読書時代~青春時代~働き盛り~
第2の読書時代~第2の故郷チェンマイでの第2の青春時代

どの時代においても、悔いなくやったと自信がります。
前半は、遊びがメインの思い出作りの無邪気なな子供時代と青春時代

そして向かえた働き盛りは、自分に目標を持ちそれに向かって無心に働きました。
頭の中は、仕事の事だけです。
営業をしていた私は、”どうやったら売上を上げれるか?”
ただそれだけでした。
そして自分の目標を達成し、
物を売る仕事に虚しさを感じてしまったのです。
周りの人は私の事を ”仕事に燃えている人” と見えてたようですが、
私はその頃、虚しくて虚しくて・・・ぽっかりと空てしまった心

そんな時出会ったのが、”タイ” です。

でも私は、母が亡くならなかったらタイで生活する行動を起こさなかったと思います。
母が亡くなる前に私は、母の介護を考えてました。

”たった一人の娘に世話になりたい”
母がきっとそれを望んでいると感じました。
その矢先に突然死んでしまった母・・・・

それは母が ”タイへ行きなさい!” と言っているようでした。




                    母と川遊び
更なる目標・夢へと続く・・・・